風流山車が15年ぶり復活へ 大震災で継承途切れ 後継者不足が課題となるも高田町「五年祭」で1台運行(別写真あり)

▲ 平成22年の風流山車運行の様子。華やかな人形山が4台連なる

 陸前高田市高田町に鎮座する氷上神社と天照御祖神社の合同式年大祭(高田町五年祭)が、10月19日(日)に挙行される。祭りを運営する実行委などは、平成23年の東日本大震災によって途絶えていた「風流山車」を1台復活させるべく作業を進めている。同22年の五年祭を最後に途絶えていた伝統的な出し物で、15年ぶりに町民らの前へそのきらびやかな姿を現すことになる。現在、鋭意製作中だが、震災と高齢化の影響で作り手の数は限られ、5年後、10年後に向けた継承は引き続きの課題となっている。(鈴木英里)

 

鈴木さん㊧、坂井さんら一部の町民が、過去の写真を参考にしながら山車製作にあたっている

 「木枠の体にワラで肉付けしたあと、そこに服を着せていく。これも以前は着付けができる女性の役割だったんだが…」
 そう言いながら、〝ああでもない、こうでもない〟と衣装を人形に合わせていくのは、鳴石地区の鈴木武幸さん(76)だ。鳴石公民館脇には8月中旬から足場が組まれ、鈴木さんを中心に風流山車作りが進む。製作にあたって頼りにするのは、鈴木さんや、天照御祖神社の総代長である坂井一晃さん(84)ら、わずかな町民の記憶と過去の祭りの写真だけだ。
 両神社の式年大祭は、5年に一度の挙行。震災前までは、神輿渡御と大名行列、郷土芸能の奉納などのほか、「荒町」「和川(和野・川原)」「大町」「大石・森の前・馬場・鳴石」の4祭組で所有する「風流山車」4台が、手踊りとともに市街地を練り歩く豪華な行列が最大の見ものだった。
 同町の風流山車は、旧仙台藩領域に特徴的な「館山車」と呼ばれる人形山の一種で、高い館や武者などの人形を乗せる。旧気仙郡の郷社である氷上神社のほかは、大船渡市盛町に鎮座する天照御祖神社の式年大祭にその姿を残す。
 しかし、震災で陸前高田市内は壊滅的な被害を受け、「荒町」と「大町」の山車は流失。製作に携わっていた人たちも多くが犠牲となり、ほとんどの町内会が解散した。震災後初めて行われた平成27年10月の大祭では、「到底、山車を出せる状況ではないし、誰も『やろう』とさえ言わなかった」と鈴木さんは振り返る。
 また、コロナ禍も影響した。前回と前々回は祭儀のみ執り行われ、町民が五年祭に関わる機会は10年間にわたって失われた。結果、祭りのならわしや過去の様子を覚えている人はさらに減少。住民も入れ替わり、人形山が同町にあったことすら知らない人も多い。
 「このままでは誰も風流山車を継承できなくなる」
 生き残った住民や総代らが危機感を覚え、今回の山車復活を計画。しかし、山車が残った「和川」祭組でも、その作り方を記憶する人がもはやいない。大工であり、鳴石の運営メンバーとして関わってきた鈴木さんの記憶と経験だけを頼りに「高田町祭組」として1台のみを仕立てることになった。
 作るのは『源九郎義経中尊寺入山之躰』の一場面。震災の前年、「大石・森の前・馬場・鳴石」祭組が扱ったのと同じ題材だ。鈴木さんは「前の通りに作ればいいから今年は大丈夫。でも次はどうするか」と先の展望がまだ開けていないことを懸念材料に挙げる。
 人形の周囲を飾るのは、ロウ引きした紙製の花だ。鹿のツノで紙をなぞって花びらの立体感を出したり、紙を細く巻いてキクの花弁に見立てるなど、花作りも技術が求められる。しかしこれも作れる人が1人しかいない状況という。坂井さんは「ベテランも、後継者になるはずだった若い人も、津波で亡くなってしまった」と悲しみをにじませる。
 今回だけではなく、どう次につなげるかが課題となる中、鈴木さんは「若い人は関わった経験もないから足が向かないだろうし、作業が日中なこともあって、一緒にやってくれとお願いできるような人も思いつかない」と悩みつつも、「興味がある人は、見学にだけでも来てもらえたら歓迎する」とし、継承に向けた糸口を模索している。