大震災15年/History3.11 あの日から① 多くの支えに感謝し誓う〝恩送り〟 大船渡市赤崎町出身 千田京平さん 母の死 向き合い方にも変化
令和8年3月1日付 1面
東日本大震災の発生から間もなく15年を迎える。発災直後と発災から数年後、そして現在。気仙の地に暮らす人たちの意識や心情はどう移り変わってきたのだろうか。前向きな変化も、そうではない変化もあったろう。大切な誰かを亡くした人の心の傷や、古里を思う気持ち、伝えていくべき教訓など、「変わらないもの」もあるだろう。それぞれが刻んできたあの日からの歴史──その心の変遷をたどる。
「地元に帰るとつらい気持ちになっていたけれど、今は地元に何かしたいと思えるようになった」──。東日本大震災で自宅が全壊し、母・博美さん(当時46)が犠牲となった大船渡市赤崎町出身の千田京平さん(28)=東京都在住=は、心境の変化を語る。
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赤崎町で小学6年生までを過ごし、その後、中学進学を機に陸前高田市高田町に新築した自宅に引っ越したが、1年がたとうとする頃、震災が発生した。
大きな揺れに襲われたのは卒業式の予行練習中。一晩を教室で過ごす中、保護者が子どもたちを迎えに来た。朝になると、残っていたのは千田さん1人だった。
津波によって壊滅的な被害を受けたまちをひたすら歩いた。避難所に身を寄せて1週間近くたった頃、五つ年上の兄・晃平さんと再会。きょうだい2人、高田一中の体育館で3日間ほど生活したあと、赤崎町に住む母方の叔父が迎えに来た。
叔父の家で暮らしながら、日中は避難所や遺体安置所で母を捜し回る日々。発災から約3カ月後、博美さんが発見されたと、警察から連絡が届いた。
「ずっと、生きていると思っていた」。受け止めきれなかった。「見つからないよりはよかったけれど」と思う一方で、DNA鑑定で本人だと判明しても、葬儀を終えてもなお、信じようとしない自分がいた。
「いってらっしゃい」「気をつけて帰ってきてね」。あの日の朝、いつも通りの会話を交わした。そのままの母の姿が頭に残っている。
失意に沈む中にあった千田さんの心の支えになったのは、元プロ野球選手による被災地支援の野球教室。「久しぶりの野球は、やっぱり面白かった」と振り返る。
兄の後押しもあって野球を再開し、心に希望がともってきた。「母の分も生きる」と固く誓った。
博美さんは野球好きで、花巻東高のファンだった。「甲子園に行きたい」とよく口にしていた。母の夢をかなえるために、一般入試で強豪校の門をたたいた。100人以上の部員が在籍する中で、入部当初は決して目立っていなかったが、生来の負けん気で、強い思いを胸に人一倍練習した。
3年生引退後、新チームではレギュラー入り。けがに泣かされもしたが、2年秋からは打線の中軸を担い、3年時には甲子園に出場。「甲子園に連れて行けるよ」──。博美さんとの約束を果たし、甲子園ではプロ注目選手を擁するチームを相手に打棒を振るい、母が夢見た聖地で躍動した。
明治大学では準硬式野球部で主将を務め、全国4強入りにも貢献した。大手スポーツメーカーを経て、現在はフリーランスとしてイベント運営に携わるなど、活躍している。
今年1月末、東京都のサプリメントメーカーから運営委託を受け、陸前高田市で小学生対象の野球教室を開催した。千田さんが手がけた初めての野球教室。会場には、ふるさとである同市を選んだ。会場にはたくさんの笑顔が広がった。
「初めての野球教室だったので不安もあったけれど、笑顔を見ることができてよかった」と、千田さんは目を細めつつ、「東北を盛り上げたいという気持ちが強い。野球教室にも、特別な思いがあった」と力強いまなざしを見せる。
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遺族、被災者にとって震災に節目はない。千田さんも、あの日の記憶は鮮明に残っている。地元に帰れば、つらい気持ちを抱きもした。それでも、自身の歩んできた道のりが、震災への向き合い方に変化をもたらした。「あの日のことは忘れないけれど、今、大人になり、地元に何か還元したいと思えるようになって、〝できる側〟になった。地元を前向きに捉えられるようになった」
「恩送り」という言葉を常に胸に秘めている。被災後、金銭面で大きなサポートを受けたみちのく未来基金の元代表からもらった言葉。ふるさとでの野球教室も、子どもたちへの恩送りだ。
「震災後、たくさんの恩をもらった。一つ一つを直接返すことはできない、これからはたくさんの人にどんどん恩を送りたい」「将来は自分で基金を立ち上げて、震災に限らず親を亡くした子たちを支えられたら」
多くの人に支えられて大きくなった。その恩を、これからも誰かに届け続けていく。(清水辰彦)=7面に続く





