History 3・11/守り 生まれ 育てた15年 ツバキを信じ続けて

 15年前の平成23年3月、大船渡市は全国椿サミットを控えていた。開催8日前に東日本大震災が発生し、間もなく中止が決定した。混乱下で、咲き誇るツバキを将来につなげようと行動した人がいる。被災地に伸びる姿に希望を見いだし、産業化へと花開いた事業がある。ツバキを守り、新たな可能性を生み出し、育てた15年に光を当てる。

 

生命力を信じ「切り詰めた」決断/世界の椿館・碁石 林田 勲 元館長

 東日本大震災が発生した平成23年3月11日、末崎町にある世界の椿館・碁石で館長を務めていた林田勲さん(77)。大きな揺れが襲った午後2時46分は、来館者が増える週末を見据え、脚立に上がり、ツバキの枝先についた花がらを摘む作業にいそしんでいた。
 建物全体がゆがむような音が響き、まずは20人程度いた来館者を安全な場所に誘導した。碁石海岸は陸の孤島と化し、大船渡町にある自宅には2日間、戻ることができなかった。
 いったん自宅に戻り、すぐにとって返した椿館で最初に行ったのは、館内に伸びるツバキの枝を切り詰めることだった。
 停電が続き、水道も復旧の見通しが立たない。ツバキを花や葉が多い状態でそのままにしていては、地中から多くの水分を吸い上げようとして枯死に至る可能性があった。
 「このままでは、半分は枯れてしまう。ツバキの〝体〟を小さくしよう。ツバキは生命力が強い。根が残っていれば増える。強い木だから」
 直近に予定されていた椿サミットは中止となり、しばらくは通常の運営はできないと覚悟した。将来を見据え、枝に付いていた花は全部とり、枝は3分の1程度にした。
 15年前、林田さんが枝を切り詰めた木々は、今年も立派に花を咲かせた。彩りにあふれる館内を巡り、林田さんは「あの時、切って良かったな」と語る。
 発災年には、思いもしなかった支援を受けた。大船渡出身者のつながりで、愛知県内の造園業者から、100種類以上に及ぶツバキの提供を受けた。今も多くが花を咲かせ、600種を誇る椿館には欠かせない存在となった。ツバキや古里を思う支援が、今に生きている。
 震災以降、林田さんはツバキの専門家として、館外で活動する時間も増えた。復興支援の一環で、市内各地でツバキの植樹が進められた。
 市は「つばきのまち」を標ぼうする一方、震災前はまとまった数の植樹をする機会は多いとは言えなかった。「植樹自体の動きはあったが、花や葉を生かすまでにはうまくいっていなかった。住宅や道路整備で、むしろ伐採されていたのではないか」と当時を振り返る。
 復興支援の一環で大手企業が長期的に参画するなど、林田さんが記憶しているだけでも、植樹したツバキの数は3000本を超える。だが、植樹は、すべてがうまくいったわけではない。環境面に加え、植えてからの管理が十分にできない場所もあった。植樹に適した時期の見極めなど、経験を重ねて見えてきたものもある。
 これまでの植樹を振り返り、林田さんは「ツバキはどこにでも生えてはいるが、緩い傾斜になっていて、水があまりたまらず、南や東側に向いている場所が適している。なかなかそういう場所を見つけるのは難しい」と話す。
 一方で、しっかりとした成長を実感できる地域もある。世界の椿館近くの民有地に伸びる木々は今、2㍍以上に成長し、椿油となる実もまとまった量を確保できるようになった。
 15年前の平成23年、椿サミットが中止となったことに、同9年に開館する準備段階から椿館の運営に携わってきた林田さんには悔しさもあった。「ツバキがうまく活着して一人前になって、一番いい状態の時に震災が来たから」。苦難の先には、ツバキを愛する多くの人々との出会いもあった。感謝を胸に、15年越しとなる椿サミット当日を迎える。


苦境乗り越えて生産量拡大/バンザイ・ファクトリーの「椿茶」

 東日本大震災以降、新たに生まれたツバキの特産品がある。復旧・復興事業で整備された大船渡駅周辺地区に本社・工房を構える㈱バンザイ・ファクトリー(髙橋和良代表取締役)が製造する「椿茶」。気仙をはじめ沿岸部で育つツバキを生かし、口に含むと優しい甘さが広がる。
 震災に耐えた木として、陸前高田市・高田松原の「奇跡の一本松」が有名になった。7万本が伸びていた中から唯一残った存在は、髙橋代表取締役(64)に、ツバキへの気づきをもたらした。
 津波浸水地でも幹や葉が残るツバキは、春になれば花を咲かせた。他の樹種よりも、深くに根を伸ばす。成長には時間がかかるが、いったん根を深く張ったツバキは強い木になり、自然災害にも強くなる。さらに、三陸沿岸で育ったツバキの葉は、際立って厚い特徴がある。
 髙橋代表取締役は平成24年に同市内でバンザイ・ファクトリーを設立。ツバキの「ストーリー」の活用を思い描き、椿茶の生産に乗り出した。
 復興事業が進んでいた大船渡に工房を構えたのは8年前。当時、同社の売り上げに占める椿茶の割合は大きくなかった。製造の大半も外部委託していた中、令和2年、東京都のホテル椿山荘東京とのつながりが生まれた。
 同じ時期、新型コロナウイルスの影響に直面した。外部委託先や観光地が多かった製品出荷先の操業が止まり、売り上げが激減した。
 こうした影響下でも、ホテル椿山荘は単なる「被災地の特産品」としてではなく、無農薬・ノンカフェインの茶製品として、まとまった取引を望んでいた。髙橋代表取締役は、可能性を信じ、大きく営業のかじを切った。
 製造を、自社工房内で完結する内製化を進めた。同時に研究開発も進め、香りをより引き立てる焙煎加工ができるよう、新たに機械を入れた。
 「自然な甘さになった」と、髙橋代表取締役は変化を語る。コロナ禍前までは、椿茶に甘茶をブレンドさせていた。研究を通じ、ツバキの茎の活用に行き着いた。
 天然由来の甘味料であるステビアを浸透させると、茎が持つ甘みが溶け出す。「ネギも茎の白い部分は甘いが、緑色は辛い。茎に甘みがあるのではと仮説を立て、どうやって引き出すか追い求めた」と振り返る。
 生産量が増えれば、ツバキの葉に付いている「ろう」の成分を拭き取る作業が多くなる。こうした1次加工された葉は、気仙などの沿岸に立地する福祉施設から購入している。椿茶の生産拡大が、障害者の新たな仕事につながった。
 コロナ禍前との比較で、生産量は10倍に伸びた。「やっと産業化のスタートに立っている。在庫も確保し、急な大きな注文にも対応できるようになった」と語る。
 髙橋代表取締役は、一般社団法人レッドカーペット・プロジェクト(陸前高田市)の代表も務める。もともとは、産業や景観面を意識しての活動だった。「高田高校から依頼を受けて講師を務めた時、生徒から『高田は空き地が多くなった。復興は失敗したと思うか』と質問を受け、涙が出るような思いになった。何かをやっている姿を見せたいと考えるようになった」と語る。
 高田地区に加え、「三面椿」がある末崎町の熊野神社付近の浸水跡地には、末崎中卒業生が植えたツバキが伸びる。1本ごとに、植えた生徒の氏名が記された木札が付けられている。ツバキを通じた取り組みは、被災地の未来を子どもや若者につなぐ存在としても根付いている。

 

「あの年」中止になった椿サミット実現へ

 

東日本大震災直後の大船渡町内。がれきに覆われた道路上の歩道橋には、椿サミットを歓迎する横断幕が残っていた

 全国椿サミットには、ツバキやサザンカを活用したまちづくりに力を入れる自治体関係者や愛好者が集う。開催地の魅力に理解を深めながら、交流を楽しむ場として定着してきた。
 大船渡市で開催されるのは、平成12年3月の第10回大会以来。西暦2000年に当たる節目の年に、東北初の開催地として選ばれ、主会場は今は災害公営住宅が建つ盛町のJAおおふなと会館だった。
 翌年、同市は三陸町と合併を果たした。合併建設計画に基づき、1000人規模の大ホールがあるリアスホールの整備が進み、合併10年目の平成23年3月19、20日に、2度目となる大船渡大会が行われることになった。

令和4年はコロナ禍で開催を断念。準備も佳境の段階で中止を告げる紙が張り出された

 しかし、3月11日に東日本大震災が襲い、市役所の掲示ポスターに「開催中止」を告げる紙が張り出された。リアスホールは避難所となった。
 震災復興期間の翌年度となる令和4年3月に、市は再び開催を目指した。復興した大船渡の姿だけでなく、支援への感謝を発信する機会とも位置づけて準備を重ねたが、新型コロナウイルスの影響が収まらず、中止を決断した。
 大船渡大会の経緯を振り返れば、苦難に直面しながらも復興や再起を重ねた15年が浮かび上がる。〝三度目の正直〟への期待は大きい。