History 3・11/「今どこに」答えは出ず 気仙両市で依然280人が行方不明 「一家の支柱」失いながら交わる祖父と孫の道
令和8年3月11日付 2面
東日本大震災の発生から15年を迎えた現在も、気仙両市では合わせて280人が行方不明のままだ。発災時、陸前高田市高田町の市街地にいて津波にのまれたとみられる同市米崎町の吉田利行さん(当時43)も、遺体はまだ見つかっていない。「利行さんは足の悪い人たちの避難を手助けしていた」と感謝される中、父の吉田税さん(91)は「生き延びる方法はなかったのか」とやりきれなさを抱えたまま、今も手がかりを求め続ける。一方、利行さんの次男・凜之介さん(29)は5年前から税さんと一緒に農家として働くようになり、また、1児の父にもなった。息子への、そして父親への思いをそれぞれに聞いた。
「俺だけはあきらめない」 吉田 税 さん
発災2年半後、古川沼で見つかった車両の引き上げに立ち合った税さん。車は利行さんのものではなかったが、「一つでも多く手がかりを見つけてほしい」という思いを強めた
「そろそろ俺も親父の後を継ごうかな」
陸前高田市の民主商工会の事務局長だった利行さんがそう話していたのは、震災が起きるほんの少し前のことだった。
遠からず民商を退き、両親と同じ農家になるつもりだと。息子がそんなふうに考えてくれていたことを、父親として心からうれしく思った。税さんがかつてそうだったように、「市議会議員に」との声も出ていた。
「困っている人がいたら助けるんだぞ」。税さんはそう言って3人の子どもを育てた。姉が2人いる末っ子の利行さんは仲間内で「棟梁」と呼ばれる、いわばガキ大将。税さんから見ても「とにかく〝きかない〟子ども」だった。筋の通らないことが嫌いで、大人相手でも強く反抗する。だが心根が優しく、弱い人を見ると黙っていられないたちでもあった。
あの日も、市街地で人を助けていた。津波災害史研究家の山下文男さんと交流があった利行さんは、家族にも「『津波てんでんこ(それぞれに)』で逃げろよ」と話していたから、本人も避難しているものと税さんは信じていた。だが、違った。
高齢者を背負うなどし、3人を市役所の屋上に上げた利行さんは、周りが制止しても「あと1人だから」と再び下りていったという。最後の姿を見た人から、「その時のニコッとした利行君の笑顔がね、なんともいい表情で…」と、のちに聞いた。
あの日、地震発生から津波到達までに約40分あった。誰もがすぐに避難を始めていたら、皆が助かり、息子も助かったと考えずにはいられない。
「てんでんこに逃げていてくれたら。俺が『人助けをしろ』と教えなければ」と、税さんの悔恨は尽きない。けれど利行さんが誰に言われずともそういう人柄だったことは、周囲の人たちが一番よく知っている。
市街地から1㌔ほど離れた高田松原にある古川沼。税さんは震災直後からこれまでずっと、「あそこに利行が沈んでいるんじゃないか」という思いを持ち続けてきた。
沼底の徹底捜索については国、県、市に再三、掛け合った。市議会に請願書も出したが、望んだ形での捜索はかなわなかった。「民間の人にも、海上保安庁にも船を出してもらったり、ダイバーにも潜ってもらったり、できる限りのことをしていただいた」と感謝する一方、どうしてもあきらめがつかない。
死亡届こそ出したが、お墓には利行さんが使っていた野球の硬球が1個入っているだけだ。雨が降ったり強風が吹いたりした翌日は古川沼へ行き、「堤防に何か漂着していないか。何か手掛かりが浮かび上がっていないか」と目を凝らしてきた。運転免許を返納し、自由に動けなくなったあとも、思いは常に沼の底へと向かう。
復旧工事後の沼周辺は様相がすっかり変わった。かつてのまちも土の下に消えた。もはや捜索は困難だろう。今も家族の元へ戻れない200人以上の行方不明者を思うとやるせない。
孫の凛之介さんが「親父の代わりに俺が農業をやる」と言ってくれた時はうれしかった。「独り立ちできたら利行も喜ぶ」と、税さんも助力を惜しまない。ひ孫も生まれた。だが、幸せだと感じるたびに、「これで津波さえなかったら、なんぼ(どれだけ)幸せな家族だったろう」と堂々巡りに考えてしまう。
朝、目が覚めると一番に浮かぶのは、今も息子の顔だ。利行さんは酒が好きだった。一方の自分は飲めない。利行さんは「親父と飲むために大人になったのに、面白くねえなあ」とよく愚痴っていた。──「そんなことばかり思い出す」。そう言って税さんはうなだれる。
悲しみの強さに今も変化はない。「『きょうもきのうと同じぐらい苦しい』、そう思いながら15年間が過ぎた」。
卒寿を過ぎた今、税さんは「あの世に行けばそこで会えるだろうか」とも考える。けれどすぐ、「生きているうちに息子を抱きとめてやりたい」と思い直す。「まだ探せるところはある。許可がもらえれば1人でも、スコップ1本でも探し続けたい。骨の一片でいいから見つけられたら、ようやく俺は、息子がふところに帰ってきてくれたのだと思える。俺だけは死ぬまであきらめない」。
「父が生きた証し」として 吉田 凜之介 さん
震災直後、避難所へ通い物資の仕分けを手伝っていたころ。左から4人目が凜之介さん
15年前、旧米崎中の2年生だった凜之介さんは、大地震のあと自宅へは戻らず、同校の体育館で一夜を明かした。
この時点では、家族の心配はあまりしていなかった。みんな避難しているはずだと。津波で家をなくした友達の方がまずは気がかりで、そばにいた。
だが、翌日の昼に帰ってみると、家には祖父母しかいない。幸い、二つ上の兄と母にはすぐ再会できたが、「きっと市役所か高田病院の屋上にいるだろう」と思われていた利行さんの行方だけが、いつまでたっても分からなかった。
最初は避難所を、それからすぐに遺体安置所を探し歩く家族の日々が始まった。しかし、税さんは「お前たちには見せたくない」と、決して孫たちを安置所に近づかせなかった。学校や部活の再開の見通しも立たない中、凜之介さんは同じ野球部のメンバーで集まり、不安をやり過ごした。
兄も自分も、野球を始めたのは父の影響。同部のコーチだった父は、息子と他の部員を決して分け隔てない人だった。
仲間たちもコーチの不在を知っていたが、「変に気を遣ったりせず、いつも通り接してくれて救われた。友達とわいわい過ごしていれば気も紛れた」。やがて皆で町内の避難所へ毎日通い、物資の仕分けを手伝うように。誰かのために何かしていると、凜之介さんも余計なことを考えずに済んだ。
ようやく利行さんの持ち物が見つかったのは、震災から1年が過ぎようというころ、凜之介さんの中学卒業直前だった。家族の誰もが割り切れてはいなかったが、唯一の手がかり発見を機に死亡届も出された。ずっと人前で涙を見せないようにしていた凜之介さんも、野球部の3年生を送る会で、顧問が「ここに利行さんがいてくれたら……」と言葉を詰まらせた時、ついに大声を上げて泣いた。
凜之介さんは高田高・海洋システム科から横浜の大学へ進んで野球を続け、卒業後は盛岡の広告代理店に入社した。たびたび実家へ帰省し家族と話すことも増えた中で、利行さんが祖父母の後を継いで農業を始める気だったと知った。初めて聞く話だった。
「〝お父(とう)〟が大好きだった。だから、お父がやろうとしていたことを、自分がなぞってみてもいいかなって」。農家を引退するつもりだった祖父に決意を伝えると、やる気を取り戻してくれたことが分かった。令和3年に凜之介さんは古里へ戻り、新規就農者として出発。頑張った分だけ応えてくれる野菜づくりに、やりがいを感じられている。いずれは稲作にも挑戦したいという。
最近、会う人、会う人から「父親に生き写しだ」と驚かれる。声までそっくりだと。名乗る前から「あんた、利行さんの息子だべ」「お父さんには世話になった」と声をかけられる。凜之介さんは「俺自身が、お父の生きた証しなんだ」と気付いた。
その父は今、「なんか、ハワイにいるらしいです」。そう言って凜之介さんは笑う。
Uターンしてきたころ、夢に父が現れた。「いまハワイで、仲のいい友達と飲んでるよ」と楽しそうだった。「お父も俺の顔を見て、『お前、俺に似てんなあ』って言ってました」。
凜之介さんも5年前に結婚。一人娘の愛凜さんは4月で4歳になる。凜之介という名は利行さんが付けてくれたもので、父からは「りん」と呼ばれていた。同じ字と響きを、娘にも受け取ってほしかった。
愛娘にも、古里に大きな震災があったことを少しずつ伝えている。利行さんのことも。「まだ小さくて理解できていないだろうから、繰り返し話していきたい。大人になってからピンときてくれればいい」。
この夏には初めて海水浴場にも連れていきたいと思っている。「娘の名が『マリン(海)』なのは意識したわけではなく、たまたま」だが、「やっぱり海は好き。地元が好きなんです」。
地元には、震災当時の経験を分かち合えて、何でも話せる気の置けない仲間たちがいる。そういう存在に出会わせてくれたのは野球で、野球は利行さんが教えてくれたものだ。そんな父と自分たちが生まれ育ったこの海のまちが好き──。すべては循環しているのだ。





