大震災15年/History3.11 あの日から⑦ 恩返し胸に 奥能登で勤務へ 陸前高田市職員・石川 浩さん
令和8年3月17日付 1面
陸前高田市職員の石川浩さん(60)は3月末で退職し、4月から石川県の任期付職員として働く。職員人生32年の大半を水産畑で過ごし、東日本大震災発生後の15年間は漁港や海岸施設の復旧に奔走した。終わりの見えない膨大な業務を他自治体職員や全国の水産土木技術者の力を借りて完遂させた。「今度は自分が力になりたい」。恩返しのため、能登半島地震や奥能登豪雨の被災地で汗をかく決意を固めた。
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石川さんは建設会社を経て、平成6年に技師として入庁。水産課に配属され、漁港・海岸の設計、積算、工事監督などに当たった。
「あの日」は市役所にいた。転勤のあいさつで訪れた県の出先機関の職員と話していたとき、ただならぬ揺れに遭った。パソコンが次々と床に落ち、ロッカーも倒れた。
翌日は土曜日。「週末は休みなしだな」。津波を覚悟し、漁港への影響に気をもんだ。ただ、防潮堤を越水するとは考えなかった。
職員らは一度、庁舎そばの広場に参集。しばらくして海側に目をやると、白い煙が立ち上っていた。「津波が来ている。避難しろ」。誰かの叫び声が聞こえた。慌てて市役所の屋上まで駆け上がった。
巨大な黒い津波が、あっという間に市街地をのみ込んだ。人が流されていても何もできず、思考は停止した。「終わった」。絶望感しかなかった。
妻や3人の息子ら家族は無事だったが、多くの同僚を亡くし、家族を失った職員もたくさんいた。複雑な思いを抱えながら、支援物資を仕分けたり、配送したりする作業に没頭した。
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水産課では昭和30年の市制施行後、担当職員が各漁港の整備などに投じてきた予算を積み上げる作業を引き継いできた。市管理の漁港は石川さんの入庁時11カ所で、震災前までの全体の累計額は196億6000万円。「この積まれた事業費を見ると、直接言われたわけではないが、先輩から『あとは頼んだぞ』と託されたような感覚だった」。漁港を守り、後輩に引き継ぐ役目を果たそうと思っていた。
こつこつ整えてきた漁業の拠点をたった一日で失い、ショックだった。しかし、それと同時に「復旧するまで絶対仕事を全うする」との使命感がこみ上げ、何から着手すればいいか分からないほど膨らんだ復旧業務に取りかかった。
防潮堤は陸こうの門扉更新などを手がけたことはあるが、ゼロからの整備は初めて。設計図通りに進められない難工事が次から次へと続き、作業船、作業員の確保にも頭を悩ませた。
頼りになったのが、全国からの人的支援だった。水産課では他自治体からの応援職員のほか、陸前高田市からの業務委託を受け、一般社団法人・水産土木建設技術センターの水産土木技術者らも加勢した。被災前、5人前後だった同課の人員は倍ほどに増え、「とても自分たちだけではやり切れなかった。本当にありがたかったし、心の支えとなった」と語る。
令和3年9月、震災発生から10年半で漁港や海岸保全施設などの復旧が完了した。費用は総額で423億円。広田湾の海沿いにはT・P(東京湾平均海面)12・5㍍の防潮堤が築造され、堤防より海側では漁業の作業場が復活した。
「やっと終わった」。主業務が施設の維持・管理や水産振興にようやく切り替わった。
そうした中、6年1月、能登半島地震が発生。水産現場が深刻な被害を受けており、「力になりたい」との思いを募らせた。しかし、国の第2期復興・創生期間中で陸前高田市は他自治体などから応援職員を受け入れている立場にあり、長期派遣はかなわなかった。
今月末で同期間が終了し、昨年12月に還暦を迎えた。末っ子の三男は今春、新社会人になる。さまざまな節目に背中を押されているように感じ、新たな一歩を踏み出すこととした。
赴任先や業務内容は正式に決まっていないが、奥能登にある県の出先機関で働く見込み。「全国からの応援が仕事の原動力となった。大きなことはできないが、今度は自分が応援する側の一人となれればと思う」と誓う。(高橋 信) =7面に続く=






