大震災15年/History3.11 あの日から⑪ ワイン文化の〝根〟を育てる ドメーヌミカヅキ 及川恭平さん

▲ ワインを軸にした陸前高田市の活性化を見据える及川さん

 「再来年には、原料も醸造所も〝オール陸前高田〟のワインをリリースできそう」──。東日本大震災後、国内外でワインや経営について学び、地元の陸前高田市小友町にUターンした及川恭平さん(32)。令和3年にワイナリー「Domaine Mikazuki(ドメーヌミカヅキ)」を創設し、5年には、果実酒の製造・販売やワインツーリズムといった事業を本格的に手がけるための「オイシステム合同会社」を立ち上げた。そして今年、同町箱根山中腹にある木造施設を改修し醸造所を開くめどが立ち、「やっとスタート地点」と現在地を見つめる。

 かつては「早くここから出たい」と思っていた古里。東日本大震災発生直後のまちを目の当たりにした高校時代に地域貢献への使命感を抱き、まちづくりに関わるための知識やスキルを身に付け帰ってきた。目の前の景色は少しずつ変わるが、「ワインを核に地域を盛り上げる」と目指すものは変わらない。目標を見据え、一歩ずつ前へ進む。

 

 

 震災発生時、県立大船渡高校2年だった及川さんは、所属する自然科学部の部室にいた。帰宅しようというタイミングで「校舎が崩れるかもしれない」と思えるほどの大きな揺れに襲われ、すぐに窓から外へ飛び出した。
 公共交通機関が運行停止となり家に帰れず、学校の体育館で過ごした。4日目、迎えに来た父親の車に乗り、住田町経由で帰宅した。
 家に帰る途中は、海から遠い竹駒町内にがれきが散乱している様子や、壊滅的被害を受けた中心市街地を見た。当時について「虚無の状態。何が起こっているのか受け入れられない。これが現実なのかという心境だった」と振り返る。
 家では電気が通らず、夜はロウソクに火をともして家族と過ごした。消防団員だった父は連日、行方不明者の捜索活動に出向いていた。親戚や友人を探しに、遺体安置所を訪れた日もあった。
 学校再開後は、毎朝6時にバスに乗り、2時間かけて通学する日々が続いた。「震災がなければ、3年時は受験と向き合っていたはず。なぜこのタイミングだったのか。なぜ自分はこの地に生まれたのか、と考えたとき、『この陸前高田という町に貢献すべき使命』というものがあるように感じた」──。進路を決める、大きな転換期だった。


 

 復興事業は長い期間を要する。高校生の及川さんは「ハード面の整備が終わったあと、自分にできることは何か」と模索。もともと発酵や醸造に興味があり、それらの糸口にしようと進んだ関東の大学で、ワインと出合った。陸前高田が果樹栽培に適した風土であることも分かり、ワイナリー創業に照準を合わせた。
 大学卒業後は、国内のワイン専門商社で働いたあと、フランスのワイナリーに勤めながらスキルを磨いた。陸前高田の醸造所で造ったワインと地元の食、観光をマッチングさせる「ワインツーリズム」の構想も具体化していった。
 そして震災から10年後、古里に戻った及川さんは、ドメーヌミカヅキを創業。ブドウとリンゴの農地開拓に着手した。
 令和5年には、宮城県の醸造設備を借りて造ったデビュー商品のシードルを販売。翌年には、ファーストヴィンテージとなるワインの販売にもこぎつけた。
 この春からは、箱根山にある元そば屋の木造施設を醸造所にするための改修工事を進める。市所有の同施設を借りるにあたっては、手続きが複雑で5年もの時間を要したが、〝スタート地点〟に立てたことを喜ぶ。
 醸造所が本格稼働すれば、付近に立つ宿泊施設・箱根山テラスをはじめ、農地開拓と並行して広げてきた漁業者、飲食業者、観光関係者らとのコネクションを生かし、ワインを軸にした「陸前高田ならではの体験」を商品化できる。
 「3歩進んでは2歩下がり、地道に進んできた」──。決してトントン拍子ではなかった15年だが、及川さんは諦めず目標に向かい、高校時代からまいてきた種を芽吹かせてきた。これからも、ワイン文化の〝根〟をじっくり育て続ける。(阿部仁志)=7面に続く=