大震災15年/History3.11 あの日から⑯ 亡き父と同じ会社で新たな挑戦 酔仙酒造㈱・村上真聖さん

▲ 亡き父と同じ酔仙酒造㈱に入社し、まちづくりへの貢献を誓う村上さん(令和8年)

 陸前高田市高田町出身の村上真聖さん(29)は、東日本大震災津波で犠牲となった父・芳郎さん(当時49)が生前勤めていた同市の酔仙酒造㈱(金野連代表取締役)に入社し、営業として自社商品のPRなどに奔走する。古里で友人と立ち上げた会社を辞し、父と同じ仕事を選んだ。同社の古き良き伝統を重んじつつも「新しいことをやっていきたい」。古里が持つ可能性を信じ、亡き父と同じ仕事で地域振興を誓う。



 村上さんは震災当時、同市立第一中(現・高田第一中)の2年生。同校の坂を下ったすぐのところにあった酔仙酒造の本社で、芳郎さんは役員として勤務していた。
 「父や会社の人たちが(坂を)上がってくるだろうと思っていたが、来なかった。そこで、父の身に何かあったかなと」。母と2人の弟は、高台に避難して無事だった。
 母と弟たちとは合流できたが、何日たっても芳郎さんとは会えなかった。米崎町の親戚宅に身を寄せ、歩いて避難所や体育館を捜し回る日々。「最初は『生きているだろう』と思っていた」。でも、1カ月が経過しても会えない。心のどこかで「亡くなっているかもしれない」と自覚し始めた。
 ある日、父を捜していた親族から「見つかった」と知らせがあった。地震発生を受け、家族の安否を確認しようと、高田町のJR陸前高田駅前にあった自宅に戻り、津波にのまれたとみられる。
 「きっと、父の死を受け入れてはいたんだと思う。ただ、不思議と悲しさは感じなかった」。生活環境がめまぐるしく変わり、再開した学校では、卒業後の進路や高校受験、務めていた生徒会の仕事もあった。「悲しむというか、そこまで思考が追いつかず、考える暇がなかった」。芳郎さんの影響で幼い頃に始めたサッカーにも打ち込み、目の前のやるべきことに集中していると自然と気持ちが紛れた。
 大船渡高校を卒業後は、ハード面でのまちづくりに興味を持ち、群馬大学で土木について学んだ。「地元の役に立ちたかったんだと思う」。でも、帰省するたびに道路や景観が大きく変化していく古里を見て、なぜか興味が薄れていった。
 改めて将来を考える中で「父や祖父のように経営や事業づくりに携わる人間になりたい」と、東京のIT会社に就職し、自らの手で事業をつくる経験を積もうと、新規事業の開発に取り組んだ。ビジネスをつくる楽しさを知り、仕事にやりがいを感じる一方、地元に戻って仕事をしたい思いは消えなかった。事業責任者としてゼロから事業を生み出す経験を積み、手がけた事業が一定の形になったところでIT会社を退職。その後、大学時代からともに起業を考えていた幼なじみと、地元で水産物の販売などを行う合同会社を立ち上げた。



 「自分もいつか酔仙で仕事をしたい」。
 酔仙酒造の前身・気仙酒造は、地元にあった8軒の造り酒屋がまとまって設立。このうちの1軒が、村上さんの家系だった。地元に戻って仕事をする中で、日増しにその思いは膨らんでいった。
 一緒に会社を立ち上げた幼なじみに「酔仙で働きたい」という自身の意向を伝えると、快く背中を押してもらった。令和6年末に酔仙に入社し、現在は営業の仕事で国内外を忙しく飛び回る。
 芳郎さんや酒販会社の社長だった祖父とも一緒に仕事した経験のある古株の社員からは、「新しいことをどんどんやろうとする姿勢、チャンスにすぐ飛びつくところが(芳郎さんに)似ている」と言われたこともある。
 「こんな時、父ならどうするかな」。同じ仕事をしながら、ありし日の父の姿に思いをはせる。
 入社2年目に入った現在も、まだまだ力不足を痛感する日々だ。それでも「酔仙の伝統を守りつつ、新しいこと、今の人たちが面白いと思える商品を作るためにチャレンジしたい」と構想を膨らませる。
 父の遺志と挑戦を後押ししてくれた仲間への感謝を胸に、震災後の新たなまちづくりが進む古里への貢献を誓う。(菅野弘大)=3面に続く=