幾多の犠牲 歴史つなぐ「大位牌」 洞雲寺に安置 明治三陸地震津波あす130年 静かに伝え続ける命の尊さ
令和8年6月14日付 1面
明治29年6月15日に気仙沿岸を襲った明治三陸地震津波から、あすで130年を迎える。大船渡市盛町の洞雲寺(田村大樹住職)には、当時の気仙郡内で犠牲となった5600人超を弔う「大位牌」がある。七回忌に当たる同35年に奉納以降、気仙沿岸は昭和三陸地震津波やチリ地震津波、東日本大震災の各災害や戦禍に見舞われたが、百数十年にわたり変わらず守られてきた。津波にのまれた人々の氏名が、当時の恐怖と命の尊さを静かに伝え続ける。(佐藤 壮)
本堂の東室中に安置されている、台座を含め高さ2・7㍍、幅1・9㍍に及ぶ黒地の大きな位牌。表面の中央に「丙申大海嘯溺死者諸精霊等」とあり、大きさは国内最大級とされる。
気仙郡各町村(現釜石市の唐丹村を含む)の住民に加え、内陸部からの来訪者ら犠牲者の俗名が、赤の漆字で町村別、世帯別に記されている。位牌全体に細かく記された氏名だけでなく、それぞれに「他9名」などの文字も確認できる。
昭和37年に市が発行した『大船渡災害誌』では大位牌に記された犠牲者の人数を集計し、その数は5648人に及ぶ。平成23年発生の東日本大震災での気仙両市の犠牲者計2177人を大きく上回る。気仙郡全体で多くの犠牲者が出た事実と、地域全体としての追悼の思いが伝わる。
地震津波災害史の研究で知られる山下文男氏(故人)をはじめとした市内の郷土史研究家らが平成20年に、大位牌の裏側に記されている年号と願主を調べた。その結果、津波から七回忌を迎えた明治35年6月、膨大な犠牲者の霊を慰めるために当時の広田村(陸前高田市)の村長らが発起人となって安置されたものであることが確認された。
洞雲寺門前には、同時期に設けられた「大海嘯記念碑」もある。調査報告書では、明治三陸地震津波を受け、洞雲寺には、盛にあった郡役所が管轄する「臨時病院」が設置された状況にも言及。被災した各村での救護所から患者が移送され、全国から駆けつけた医療関係者による懸命の治療が行われた一方、多くの人々が死に至る「最期の場所」となったことから、報告書では「全犠牲者の霊を弔うための気仙郡の記念碑が建立されたのは自然」としている。
津波発生から99年を迎えた平成7年には、大位牌を本堂正面に移し、百回忌が営まれたほか、同年の阪神淡路大震災の犠牲者に対する供養も行われた。大位牌はその後、東室中に再び安置され、訪れた人々が静かに手を合わせる。
猪川町出身の田村住職(43)は、副住職を経て、今年初めて住職として6月15日を迎える。同日は本尊前での「朝のお勤め」に加え、大位牌の前でも読経を行うことにしている。自然災害には、特に強い思いを持つ。
出家を志したきっかけは、15年3カ月前の東日本大震災だった。「震災時、寺の方々がご遺体に寄り添っておられる姿を見た。それが私に仏心が芽生えた時だったと思う」。震災直後は、ボランティア団体や地域住民らとともに、がれき撤去や被災者支援にあたり、地域に尽くすやりがいも感じた。
時代を超えて安置され続けている大位牌は、さまざまな災害や戦禍の被害から免れてきた証しでもある。田村住職は「今も変わらずにあるということが、大切ではないか。宗派を超えてこれだけ多くの名前が記されていることは、重い意味を持つ。祈ること、供養する思いは誰にでもあり、それが長く受け継がれている」と話す。位牌に込められた意思を後世に受け継いでいくためにも「歴史や言い伝えを知る方がいらしたら、教えてもらえれば」とも語る。
明治29年6月15日に発生した地震は、釜石市東方沖を震源とし、津波の規模から推定マグニチュード8・2とみられている。震度2~3ほどで、緩やかに長く続く震動の後、三陸町綾里白浜で最大遡上高38・2㍍を記録する大津波が襲った。三陸沿岸全体で約2万2000人が死亡。特に当時の綾里村や唐丹村の被害が大きく、それぞれ1000人超が犠牲となったとされる。





