当たり前の言葉たちに
令和6年10月26日付
暮らし、国民、家計、経済、政治、安全、平和…。国政選挙になると、有権者向けの重点施策やメッセージに、こうした言葉が多く使われる。どれも、当たり前に重要ではある。政党の党首・代表や各候補者、さらにメディアに問われるのは、これらの言葉は具体的に何を指しているのかを明確にする姿勢だと思ってきた。
例えば、暮らしといっても、子育て世帯と高齢者のみの家族では、悩みや課題とするべき問題が異なる。多様化する家族のあり方の中で、より多くの人々が共感できる表現を探すのか、それとも、現在の制度では支えきれない部分に光を当てるのか。
共感を狙うのは、容易ではない。〝広く浅く〟では、印象に残らない。訴えを絞るのも、リスクがある。〝一点突破〟では、一部の人だけを見ていると思われる可能性もある。
言葉で心を動かすのは、難しい。だからこそ、政治は言葉が問われる。自分の胸に秘める思いを、代弁しているか。聞いていて、わくわくするか。当たり前の言葉の先に、安直さや空約束は隠れていないか。感動と不信は、紙一重でもある。
メディアも、当たり前の言葉を解きほぐしながら、世論や民意、争点を発信しなければならない。選挙は、メディアも、今をどう見ているのかが問われる。
秋になって多くの党首が入れ替わり、慌ただしく選挙戦に突入した。政策や将来を語るまでには至っていない感もある。
投開票まで、残り1日となった。きょうは、選択を控える有権者とすれば、メディアや訴えでよく耳にする当たり前の言葉たちに、考えを巡らせる時間であってもいいのかもしれない。
自らの暮らしがよくなるために、何を期待すべきか。安全や平和が脅かされていると感じるのは、どのような場面で、そこに国はどう向き合うべきか──。自分なりの答えを見つけて、投票所に足を運びたい。(壮)