令和7年08月15日付
靖国神社に展示される特攻機・桜花を見た人が「知識としてはあったが、実際見るとおぞけがする」とコメントしていた▼車輪のない、異様につるんとした機体の写真を見て、その理由がよく分かった。「羽をつけただけのミサイル」としかいいようがなかったからだ▼あんなものを飛行機とは呼ばない。自力で離陸も着陸もすることはないのだから。母機に運ばれ、敵戦艦の近くで切り離されたあとは滑空しながら敵に突っ込む―そのためだけに造られたのだから▼翼が木製なのも修理の前提がないからだ。一度使えば次はない。80年前にはあんな、人間を兵器として扱うような物体に一国民が乗せられていたのだと思うと、くやしさにさけびたくなる。「人の命を何だと思っている!」と▼特攻隊を美化した映画は少なくない。〝愛する家族とお国のため、自ら散った〟と。特攻する以外の道は選びようがなく、覚醒剤を打たれて強制的に高揚状態へ追い込まれた自分を想像すれば、それが欺瞞でしかないことが分かるだろう。「桜花」なる美しい名も、爆死を「散華」と呼んだことも▼あまりの残酷さ、むごさを受け入れることに耐えられず、人はそこに自己犠牲の美しい物語を当てはめ、なんとか意味を与えようとしてしまう▼だが本当に必要なのは、人間の愚かしさを正面から見つめ、教訓として刻むことだ。